2016年07月05日

人間と動物の関係と「権利」についての考察・その1

 ここしばらく多忙続きでろくにTF小説の更新も出来ていない、そんな狐です。お久しぶりでございます。

 さて、このブログに記事を乗せるのも昨年の12月以来と大変に間が空いてしまったものですが、久々に一筆書いてみるとしましょう。
 そうなったのもつい先日、とあるフォロワーさんと共に江ノ島なぞをぶらぶらと歩いていた折、一息吐こうと入った喫茶店にて興じてしまった、以前から時折考えていた話の忘備録と言ったところになるでしょうか。

 その席で盛り上がったのは一言で言えば「人が先か、動物が先か」「人間の権利と動物の権利の関係性」と言ったもの。
 正直なところ、その場で興じてしまった話のそもそものネタ、となるモノは、そのフォロワーさんを挟んでの又聞きでありますから、私として直接見聞した訳ではありません。なのであくまでも、と但し書きは着く形ではありますが私なりに書いてみようかと思います。

 人間と動物の関係と言うのは不思議なもので、人間自体も「動物」の一形態でありながら、火を得たからか、それとも「生産」との手法を編み出したからか、はたまた、言語を巧みに操れたからか。同じ「動物」でありながらその行動、何より単一の種としての数には相当な差があるものです。
 それ故に動物が動物を管理する―即ち人間が愛玩動物(ペット)を飼う、家畜として一定の動物を飼育する―に留まらず直接的な利害関係の存在しない動物、その代表例として特に挙げられるのがクジラやイルカでありましょうが、特に一部の動物に対して特異的とまで言える執着ぶりを、濃淡こそあれ見せるのは、人間が人間自身をして「動物」の範疇外にある、と認識させてしまう、位置付けてしまう最大の要因の一部ですらあるでしょう。
 現実問題として起こっている種々の問題を取り上げると幾ら紙幅があっても足りませんから、ここでは割愛としますが、人間がどうして一部の「動物」に対して強い執着、あるいは思いを寄せるのか、更には「権利」さえ生じさせてしまうのか、との点へと最終的には触れていきます。
 
 前述した通り、人間とは動物でありながら「動物」と安易に我々自身がみなしがたい存在であり、かつ実際の行動様式が余りにもかけ離れています。
 まずは世界的に分布を有していると言う事。そうした動物とは哺乳類に限っても多々おり、代表的なのがアカキツネでありますが一部の地域、例えばオーストラリアに対しては人間による連れ込みがなければ、独力での進出は困難であったでしょうし、よりそれが顕著なのはウマではないでしょうか。
 何せ、ウマはすっかり馬として人馬一体との形で世界へ広がり、人間による人間に対する征服行為(代表的なのがスペインによる新世界進出)を強力にサポートしてしまったのですから。そして今や野生種としての馬は絶えていると言ってしまって良く、馬と言う家畜として完全に人の社会に組み込まれている典型的な動物であります。
 続いてはその人間が個々に持ち合わせる「縄張り」の範囲が極めて近接しあい、複雑に関係性を有している事。これを一般に組織、社会や都市、また国家と言うのでしょうが、これも大半の動物では中々に考えづらいもの。それでもアリやハチが築く社会的な構造と言うのは有名ではありますが、矢張り規模だとかそうした点では人間に及ぶものではありません。
 何せ人間はこの地球全体にその体制を敷いてしまっているのですから。仮にそれを比肩しようと欲する種がいたならば、それを上回らない限り、人間はその事実を決して認めようとせず、そもそも見ようとすらしないでしょう。

 しかし実はその人間を上回る存在を人間は知っています、それは「神」であり、天国、また地獄と呼ばれる目には見えない存在。
 我々がどうして生まれたのか、今ここに在るのはどうしてなのか?
 それは有史以前から、人間が人間として芽生えだして以来、常々抱き続け、時として喜び、あるいはもがき、生も死ももたらした存在。それが「神」であり、多くの伝統的な民族が持ち合わせる神話や民話、何より歴史自体がその宝庫であるとして過言ではありません。
 とは言え科学的な知見や技術に支えられるここ数百年時代となってからは、多くの地域でその勢いは削がれ、更にマルクス・レーニン主義(以下共産主義)やファシズム(主としてナチスドイツ)に基づく社会主義体制を取った地域や国家ではそうした存在を考える事すら過ちである、とすらされてしまったものでした。
 しかしその中では幾つか興味深い現象が起きたものでした、それは「神」に変わる存在の創造の試み、と言えるでしょうか。

 その始まりとして明確だと思えるのは、フランス革命期に執り行われた「最高存在の祭典」であり、これはそれまでのキリスト教的な神ではない「神」を創造しようとする試みでした。
 加えてこの時期のフランスにおいては、矢張りキリスト教の関わる従来の暦を否定した「革命暦」の制定もされ、ロベスピエールの失脚と共に消え去った前者の試みとは異なり、ナポレオン・ボナパルトによる体制掌握の時期まではある程度の機能を見せていたものです。
 その後、その動きを国歌として大々的に実行に移したのが共産主義による国家や地域であり、その最初の例となったソヴィエト連邦であり、それまでの帝政ロシアにおいて体制と共に在ったから、との事実を含めてみてもロシア正教はその勢いを大いにくじかれてしまったものでした。
 ソ連崩壊後の今も政治的には共産主義を採用している中華人民共和国においては、例えばキリスト教については共産党の指導を受ける公認教会とそうでない地下教会とが存在し、今なおカトリックの総本山たるヴァチカンとの関係は困難な一面があります。
 そしてナチスドイツ、こちらはファシズム国家として「ナチズム」に基づいた新たな社会体制・価値・人種理論の創造が試みられ、矢張り従来からの「神」はよろしからず、とされたものでした。
 最も、こちらについては先に触れた共産主義国家ほどの徹底が生じる前に体制が崩壊してしまった事。更に同じくファシズム国家と分類される国々でも、特にフランコのスペイン、サラザールのポルトガルにおいては既存の「神」を奉じるカトリック教会との協調路線が取られていましたから、大分毛並みは違うのは留意しなくてはなりません。

 ただそこで生じた現象にはふとした共通点があります。それはロベスピエールが行ったのと同様な新たな「神」に相当する存在の創造、またそれを支えとした国家・国民の創出の試み。
 これがソ連や人民中国では「全てを指揮する共産党」であり、ナチスドイツにおいては「世界に冠たるドイツ民族」。更に両者とも踏み込めば強い指導者に対する「個人崇拝」がありました。
 特に後者については少なくとも当初の意図されていたシステムの上では、あくまでもそうした立場・役職としかみなされていなかった存在が、自然と君臨し、かつそれ周囲が容認して行ったところに注目すべきでしょう。
 ソ連ならそれはスターリンであり、人民中国なら毛沢東、ナチスドイツならヒトラーとなりますが、彼等はその立場に就くレールに乗るまでは、本流どころか傍流も良いところで、その動きは正に「見えざる手」に導かれたかの様な具合ですらありましょう。
 だから彼等は権力を掴むや否や、正に「全能の神」の如し振る舞いへと走って行ったのでしょうし、走れたのではないでしょうか。そして今なお、語られる存在でいるのを見れば、歴史とはある種の「神話」の創造であると言えてしまえます。
 即ち、「神」や「神話」、「天国」や「地獄」の概念こそが人間を人間たらしめていて、否定するはずの行動や思想が新たな創造の根源となる皮肉さを持ち合わせているのです。

 話がやや脱線しましたが、ここでようやく「人が先か、動物が先か」「人間の権利と動物の権利の関係性」に触れる事が出来ます。
 前述した通り、人間とは動物であって動物である、そんな二面性を持つ存在です。そして自らの立場を「動物」より上に位置付け、「神」の下に置こうとする性質があります。
 しかし、「神」をも凌ごうとする欲求や行動を同時に見せ、「動物」は人と対等であるとすら主張しようとしますし、実際に行動に移した例は多々見受けられます。
 前者においては前に触れたフランス革命だとか、人類史上大きな意味を持ち合わせる歴史的な出来事であり、啓蒙の時代から拡大して産業革命を経て今に通じる科学的な世界や文化がそれでありましょう。そして後者は特に昨今盛んになっている動物の権利擁護、と言った動きが見えてきます。
 ここで重要なのは「動物の権利」が言われる様になったのは何故か。なによりそうした「権利」が存在する、と気付く人や思想が生じたのはどうしてか、となるでしょう。
 これについては人間の権利、即ち「人権」が確立したからこそ、人々の関心が「動物」に向かったからに過ぎない、つまり人間に余裕が生じたからこその現象であると考えます。

【人間と動物の関係と「権利」についての考察・その2へ続く】
posted by 冬風 狐 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 変化・変身・獣関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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