2012年06月27日

知らない内に起きている「革命」の非現実さ

 どうも涼しくなったり暑くなったりがころころと変わるので、皮膚の状態がその日によって変わるのが悩ましい狐です。
 取り敢えず、どちらであっても湿気があるだけ冬よりも良いのですが、今夏も上手く対処していかねばと思ったものでした。

 さて今日取り上げるのは「革命」との言葉。
 最近、Twitterにていわゆる「反原発派」と称される方に複数のフォローを頂き、そのツイート等を見る中でよく見かけるので調べてみたところ、何でも現在の日本で起きている反原発運動、特にデモに関しては「紫陽花(あじさい)革命」であり、これは中東の「ジャスミン革命」と同じである、と擬えて着けられた名前であるようです。
 最もTwitter以外では見かけたことはありません。しかし類似する表現として確か「官邸前「アラブの春」」であったでしょうか、そんな見出しを掲げていた夕刊紙「ゲンダイ」を以前に駅の売店を利用した時に見かけたのを思い出しましたものでした。
 それ以外でも書店で色々と雑誌を暇つぶしも兼ねて読んでいた際に、左系の雑誌の中で矢張りデモに関して触れていて、そこでは「ツィッター革命」なる言葉があったのも恐らく通じているのでしょう。最も私は「反原発派」の人以外でこれ等に類する言葉を使っているのを、それ等に対する揶揄以外ではまずTwitter内で見かけた事がありません。
 これ等の「○○革命」にしてもまたデモにしても、Twitter、夕刊紙、そして左系の雑誌とそれぞれ一定の範囲でしか見られない(需要が無い)媒体を介しているのが特徴でしょう。
 よって個人的にはそれ等が書き立てているほど一般人、即ちネットは余りせず、一般的なテレビや新聞を通じて情報を得ている人達の間ではそもそも知られていないのではないか、と思っています。
 私もこれ等の情報を初めて知ったのはTwitterを通じてでありましたし、日常的かつそう言った「反原発派」の人のタイムラインに触れる事が無ければ、恐らく最近まで知る事は無かったでしょう。

 最も先日、6月25日付の東京新聞が1面にて「今どきのデモ でき方は 個人つながり2000人 ツイッターで黄色まとい総武線に」との見出しで船橋で行われた反原発デモが、Twitterを介して動員が呼びかけられて行われた、と報じた事で少なくともある程度、南関東を中心に認識は高まっているのかもしれません。
 そして「最近まで〜」と書いたのも、Twitter等で知らなかったら、私もこの報道が最初に知るきっかけになったろう、と思えたからです。
 ちなみにこの報道に先立つ前日だったでしょうか、矢張りTwitterにて「総武線の中で反原発派が好き放題していて迷惑」との旨と共に写真付きRT(リツイート)が回ってきたのを見ていましたので、一体何事かと思っていたのがようやくつながった、との展開も伴っていたのも触れておきましょう。ちなみにその写真は反原発を訴えるポスターを総武線の窓に押し付けて駅停車中にホームに示している、そんなものでした。
 なお、駅等に掲示されていますので見かけた事がある方はいるかと思いますが、鉄道用地ないし施設内でのこう言ったデモ的な行動は鉄道事業者、この場合はJRの許可を得ない限り禁止、とされています。よってその辺りはクリアしているのか、とも鉄道趣味をしている者としてはやや気がかりな点ではあります。

 私としてはこれ等の動きは余り望ましいとは思いません。確かに意思表示をする事は良い事ですし、こう言った行動が出来る事自体、ある意味では日本が民主主義国家で、自由が権利として保障されている証であると思えるからです。そもそも私がこう言う文章を書いているのもまたその1つでしょう。
 しかし対案が無い、あるいは漠然とした抽象的な自然エネルギーに頼れば良い程度の対案しかなく、東京新聞曰く
「『もういやだ』と心情を吐露している」
 だけで一体何の意味があるのかと思います。つまりそれは単なる心情、即ち感情の吐露であり、感情的な動きであるとしか言えないのではないでしょうか。

 長期的に見たら最終処分の問題が解決されない限り、延々とたまり続けていく高レベル放射性廃棄物の事を考えると原発は反対・賛成に関わらず、数十年後には完全に行き詰ると思えます。
 別に反対運動をせずともこのままでは困難になるのは既に見えています。そう、もんじゅと六ヶ所村再処理工場の不具合、何より再処理をしてもどうにもなら無い廃棄物の最終処理が解決すべき問題としてあるのですから。そしてこれは原発が今、すぐに全廃されたとしてもどうにかしなくてはならない問題であります。
 だからこそ私はあれだけの劇的な、即ち福島第一原発事故と言う衝撃によってどれだけ建設的、また長期的な論議がされるのかと期待していたのですが、結局賛成派・反対派の双方とも、従来型の賛成か反対かの二極化しかしていない事に強い失望感を感じています。
 よってその中で私なりに考えれば、これまでの数十年間に渡って作られてきた、原発を基幹に置いた現状の発電システムを急激に変化させるのは好ましい事ではない。
 ある程度、少なくとも東海地震の震源域にあり東名高速や東海道新幹線、また古い言葉を使えば太平洋ベルト地帯に影響を与える浜岡原発は論外ですが、それ以外の原発は必要な安全対策なり監視対策を施した上で、当面は稼動させるべきであると思えます。

 その上で今後の発電システム、ないし送電網の管理に関して新たな見通しを立てて、投資を行い、稼動させ切り替えていくのが一番安定しているものでしょう。少なくとも原発の出力の高さは大変魅力的でありますし、個々人の隅々まで電化が進んでいる現状では電力不足は真に致命的です。
 節電との目標を掲げたところで、現在のライフスタイルは電気を使う事が何に置いても前提なのですから、どこかで無理をしている事にしかならないと思える訳です。
 この点に関しては同じく6月25日付の上毛新聞が取り上げており、1面に掲載された「オピニオン1000」の中において「再生可能エネルギーの未来」としてこの問題が取り上げられています。
 その一部を引用するならば
「今の生活や社会構造をそのまま維持して、なおかつ再生エネルギーでなんとかしていこうという考え方はやめた方がいい。原発1基分をメガソーラーで補うとすれば千カ所も造らなければならないし、電気料金の大幅な値上げにもなる。いずれ破綻する日が来る。」
 との行があり、再生可能エネルギーを推進するならライフスタイル等も変革させなければならない、との論調で建設的でしょう。

 だからこそ私は「○○革命」との言葉は、賛成・反対の二極化による議論の停滞以上に好ましいとは思えません。これは単なる言葉遊びであり、議論が進んでいない、あるいは対案が示せない事に対する言葉遊び、あるいは自己満足の証であるとしか、傍から見て思えません。
 そもそも日本には伝統的に「言霊」の概念があります。つまり言葉には何らかの力がある、だからこそ丁寧かつ慎重に使わねばならないとの、ある意味では円滑なコミュニケーションの維持に対する先人達の知恵である、と考えています。
 そしてその様な中で育まれて来た日本語を使う私達は矢張りその影響を逃れる事は難しいものですし、革命との言葉は根本的な変化を短期間に行う、の意味であるのを考えれば、我々の生活の根幹を成している電力と言う重要な存在に関して論じる時には不適当な言葉であるとしかないでしょう。
 刺激的な言葉は逆に言えば、かつての新左翼もそうでしたが、独特な身内で通じる、また使っている当人達の気持ちを高揚させる効果のある言葉です。それを表に掲げる事で、やがて最終的には身内だけの「論理的」な運動に落ちて迷走する、その前兆の様にも感じてしまえたものでした。
 そしてそれは先に書いたTwitterでのRTもまた、既にこの運動が周囲に対して不快感や違和感を抱かせている、その一例であるとも見れます。かつての学生運動から社会が離れていったのも、そう言った内輪の言葉や論理の多用、そして他者に対する不寛容と視点の欠如による違和感や不信感、現実からの乖離であったのですから。
 その点では現状の反原発運動は動員手段がTwitter等の現在のテクノロジーを介したものに変わっただけで、本質は旧態然のままとの解釈も可能です。

 よって今、求められてるのは現実を踏まえた上での持続可能性のある転換とその議論なのではないでしょうか、急激な変革は先に引用した行の通り、何らかの歪をもたらします。そしてその重要性が高ければ高いほど、その歪の与える影響は大きなものになるでしょうし、回復困難になりかねません。
 原発以前に電力は我々の生活の根幹です、だからこそ「感情の吐露」ではない、しっかりと腰を落ち着けた行動こそ重要でしょう。騒ぐのは誰だって出来る事。しかし、論じて互いの意見を理解し、そしてある程度の不満は双方とも残るのは避けられませんが、尊重しあった上で合意した意見を作り具体的な投資を行えるのが我々ではないでしょうか。
 その行動に移すのに残された時間は、もう余り残されていないでしょう。だからこそただ対立だけを煽る、感情的な行動はもう沢山だ、と感じながらの考えでありました。
posted by 冬風 狐 at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・時事・民俗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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